花束を君に

アシスタント時代につけていたノートを紐解くと、初めて彼に会ったのは2015年9月28日だった。師匠のアシスタントにしてもらってから3回目の現場。まだ右も左もわからない頃。彼の第一印象は「人を見切るのが早そう」な感じだった。本能的に「この人に、使えねーって言われないように頑張ろう」と思ったことを覚えている。

何度も師匠の現場で顔をあわせるうち、私がしつこくここに居座るつもりだということが伝わったのだろう。気づけば「ゆりちゃ」と呼んでくれるようになった。

年齢は1つしか違わなかった。次第に、同世代というくくりで扱われるようになった。だけど同じなのは年齢だけで、仕事のキャリアは彼の方が圧倒的に上だった。

ヘアメイクが彼だと聞くと、みんなが「じゃあ大丈夫だね」と言った。

彼は、その場所で、主人公が輝くためにはどうすれば良いのか知っている人だった。時には「塗らない」という選択もした。タレントだけではなく一般人にも老若男女にも、その人のことを尊びたくなるようなオーラを纏わせてくれた。彼にメイクしてもらった人を見るたびに、私は「ああ、人間ってすてきだな」と思った。薄づきの化粧品でつくる繊細なグラデーションはどんなときも品があってきれいだった。彼はアーティストであり、魔法使いでもあった。

一方、彼は闘うヘアメイクでもあった。その場の空気感を壊したり無視したりする行為には決して屈しなかった。本質と向き合わずに撮影しようとするカメラマンや、うわべだけを写した浅い写真と常に対峙していた。自分がいいと思えないものには絶対にいいと言わなかった。その姿がかっこよかった。見方によっては、いちいち噛み付く、めんどうくさい人間だったかもしれないけれど。

技術以外の部分でも存在感のある人だった。

私がグアムロケで木の枝に激突して尻餅をついたときに、ゲラゲラと大きな声で笑ってくれた。笑い飛ばして、その場の空気を軽くして、救ってくれた。いつもそうだった。現場人は空気を読んでなんぼだぜ、と身を持って教えてくれたのは彼だった。

グアム、オーストラリア、アメリカ、台湾……国内も含めればもっとたくさん。数え切れないくらいの場所へ一緒に行った。海外ロケが好きな人だった。海の近くで撮影のときは、よく浜辺にビーチチェアを出して、肌を焼いていた。夜ご飯のときは嬉しそうだった。お酒を飲むと陽気になり、突然、ものごとの核心に迫るような発言をすることがあって、ときどき周囲をヒヤヒヤさせた。

現場の名DJでもあった。特に大切なシーンでは、その場をうまく盛り立てる曲を流してくれた。宇多田ヒカルさんの曲が特に好きだった。『花束を君に』は彼がよく流してくれた曲のひとつだった。

自分の仕事をするようになってからは、彼にメイクを頼むことが増えていった。師匠と組んでいる人だから、未熟な私の仕事をお願いしてしまうのは悪いとも思っていたけれど「自分の成長のためにも」と、多いときは、週3日くらいでお仕事をお願いするようになった。

彼は車を持っていなかったので、同じ現場の日は、朝、家の下まで迎えに行った。車の中では、彼と今日の現場のことや最近の仕事や会社のたわいもない話をした。私の車の助手席に一番多く座ったのは間違いなく彼だ。降りると必ず「ゆりちゃの車線変更こわいっすわ〜」と軽く文句を言った。

現場では、言葉よりも、態度や技術で彼とコミュニケーションを取っているような感覚だった。撮って、自分の姿勢を伝えると、それを見た彼が「じゃあこれはどう?」とメイクで提案してくれた。写真の仕上がりを見て、正直者の彼が「これめっちゃいいじゃん」と言ってくれたときは嬉しかった。彼は私に知覚と知覚で会話する感覚の心地よさを教えてくれた。

彼がいてくれると思うだけでどんな難しい現場にも立ち向かう勇気が湧いた。一番苦手なプロフィール撮影は、楽しみになった。

こんなこともあった。あるタレントの撮影をした翌日。彼から電話がかかってきて「あれでよかったの?本当に?もっと深くまでいけたよね?」と詰められた。私はハッとした。たしかに私はその撮影で本質までたどり着けなかったし、たどり着く努力を怠っていた。彼にはすべて見透かされている、と思った。彼の辞書に「このくらいでいい」という言葉はひとつもなかった。気づきを与えてくれる彼に感謝するとともに、私は自分を恥じた。


私たちの大好きだった太宰治さんの作品『ヴィヨンの妻』に「おもてには快楽(けらく)をよそおい、心には悩みわずらう」という一文がある。彼はまさにそんな人だったと思う。

一度だけ家に入れてもらったことがある。現場のあと、次の用事まで少し時間があった。そのとき「うちで待ってれば?」と提案してくれた。ちょうど1年くらい前の話。5月だけど、西陽が差し込んで、部屋の中は夏みたいだった。慎ましくちょこんと座るカニンヘンダックスのココちゃんを撫でながら、話をした。ベッドサイドに一枚の油絵が飾ってあった。「これ、描いたんですか?」と聞いた。彼は「うん。精神が落ちているときずっと絵を描いていたんだよね」と言った。彼に絵を描く趣味があることはそのときに知った。絵は、青くて、夜の中にいるようで、ちょっとシャガールっぽかった。

パリピっぽい外見からは想像できないほど、読書と絵画鑑賞が好きな人だった。ロケのとき、飛行機で本を読もうとすると「何を読んでるの?」とよく聞かれた。手にしている文庫本の表紙を見せると「ゆりちゃって、暗いね」と言われた。そのたびに、私は心の中で、お互い様ですよ、と毒づいた。


先日、急に連絡があった。「カメラを買いたいんだけど、どう思う?」と。「高齢であるココちゃんの姿を残しておくためにカメラが欲しいんだよね」と彼は言った。珍しいこともあるものだと思った。親が自分を撮ってくれたような、昔ながらのフィルムの質感が良いと言う。簡単に撮れた方が良いだろうと、フィルムを1本つけて、ナチュラを貸すことにした。



4月のはじめ、撮影に使う小道具を買いに行くため電車に乗ると、師匠から急に「この先、彼に頼んでいる仕事はある?」とラインがきた。来月、2件お願いしたいお仕事があった。ものすごく、嫌な予感がした。「なにかあったんですか?」と返信した。

「今日現場?車を運転する予定はある?」と聞かれたので「ないです」と答えた。師匠から着信があったので急いで電車を降りた。

「もう彼には会えないよ」

師匠は電話の向こう側で嗚咽していた。いままで一度も聞いたことがない弱々しい声だった。モウカレニハアエナイヨという音はただ私の耳を通り過ぎただけだったが、師匠の尋常ではない声のトーンから一大事であることを悟った。目の前が真っ白になり、膝に力が入らなくなった。しばらくしてから、師匠の気遣いに感謝した。車を運転していたら、私は間違いなく事故っていただろう。




圧迫感を感じるほどたくさんの花で埋め尽くされた空間に足を踏み入れて、彼の関わってきた世界がどれだけ広かったかを実感した。こんなにも私が知らないところで生きてきた人だったんだ、と寂しさすら覚えるくらいだった。花のひとつひとつは、多くの人の悲しみ、というよりも、信じられない、嘘でしょう、という驚きをあらわしているような気がした。部屋の奥に、笑顔の彼の写真が飾ってあった。インスタで見たことがある一枚だった。

ご焼香に立つ人たちは、語りきれないほどの彼の功績を讃える方法がわからないままこの場に来てしまい、ただ戸惑っているように見えた。自分もその一人だった。

死化粧が施された顔は、髪の毛が少しだけ乱れていたけれど、眉毛なんかはきちんと整えられていて、ちょっとよそ行きの雰囲気になっていた。どう見ても寝ているだけだった。ロケ中にこの表情は何度も見たなあと思った。だけど、今回は二度と彼が目覚めないであろうことも不思議と理解できた。

その日は夜中まで、彼の近くにいさせてもらった。


翌朝、静寂に染み入るような鐘の音を聞きながら火葬場へ向かった。

火葬場に入る前、鳥が甲高く鳴いているような声がした。お母様の泣き声だった。いままでの我慢の糸がぷつりと切れたようだった。お棺にすがり、戻ってきてよと泣き叫んでいた。私はそれを見て、親よりも先に逝ってはいけないと強く思った。

弟さんはすでに両脇を抱えられないと歩けなくなっていた。「約束したのに、何バックレてんだよ」と彼に向かって泣きながら怒っていた。お兄さんのことが大好きな弟さんだったんだな、と思った。

人間の感情がむき出しになったのを久しぶりに見た。半ば発狂したご家族の泣き声が、無防備な心を突き刺し、かき乱した。どんなドラマでも、絶対にこのシーンは再現できないだろう、と思った。

重たい扉が閉まり切る瞬間、心の中でつぶやいた。

ありがとう。




1時間くらい経って、焦げ臭い匂いの充満する生暖かい部屋に通された。

お骨を見たとき、驚いた。遺跡の発掘現場から出土した化石みたいな姿だった。こんなものが彼の中に入っていたんだなと思った。若いとこんなにしっかり骨が残るのだと初めて知った。火葬前の阿鼻叫喚が嘘のように、皆、目の前のものに対する理解が追いつかずにキョトンとしていた。お箸でつまんだら骨は頼りないくらいに薄くて軽かった。水気がなくカサカサしていた。人間の一部に触れている感覚は無かった。

骨壷に骨が入りきらず、ゴリゴリとすりこぎみたいなもので粉砕されるのを見て、モノ、になってしまった感じがした。もうここに彼の魂はないのが明確だった。あんなに愛された人も、最期は砕かれて粉になって、箒で破片を集められるだけなんだなと思った。

「粉が舞いますので口元を抑えられてください」と言われた。思わずタオルで口元を覆ってしまったけれど、粉末を吸い込んだら、自分の身体の一部となって取り込まれるのだろうか、と考え直し、途中からタオルを外した。特に咳き込んだりはしなかった。

会場ではずっと宇多田ヒカルさんの『花束を君に』が流れていた。彼が好きな曲だった。誰がチョイスしたんだろう。会場を後にする直前に、そういえば、と思い、その場で歌詞を検索して「そういう意味だったんだ」と愕然とした。


ここからは私の心の話。

年々、心が鈍感になっていく気がしていた。いろいろなことに心が震えなくなっているのを自覚していた。気がつけば、心にバリアを張って、自分が傷つかないように、慎重に生きるようになっていた。毎日、どんなときでも淡々としていること。それが大人の生き方だと思っていた。

一方で怖いとも思っていた。写真を始めた頃は、誰かに執着したり、いろいろなことに腹を立てたり、何かを悲しんだり、感情をシャッフルされることが非常に多かった。そして、何かが起こるたびに、それをネタにして作品をつくっていたし、頻繁に「つくりたい」と思っていた。そんなことが、この数年でパタリとなくなった。それが、何かとてつもなく恐ろしいことのように思えていた。

数年ぶりの感情シャッフルだった。両目から流れ出る涙をまったく止められなかった。堰を切ったように心の底から何かが溢れ出した。人目を憚らずに声をあげて泣いた。すべての鎧を脱ぎ去った自分の感情と、久しぶりに対面した。

そして、不謹慎な話だが、彼に感謝した。何かをつくりたい、という気持ちが芽生えるのを感じた。



彼が大切にしていた仕事道具のひとつに、ブラシを入れる革のケースがあった。そのケースは、師匠の師匠が彼のために特注でつくったものだと葬儀のときに知った。告別式が終わったとき、師匠の師匠がそのケースを大切そうに持っているのを見かけた。「先生が持っていかれるんですか」と尋ねたら、先生はほほえみながら「そう。これからロケのたびに連れて行くよ」とおっしゃった。

自分もなにか形見のようなものが欲しい、と思ったが、私はすでに数え切れないくらいのものを、彼からもらっていることに気がついた。


忍さん。あなたに会えて本当によかった。




これを読んだら、間違いなくこう言うでしょうけど。

「ゆりちゃ語っちゃってるわ〜。恥ずかしいっすわ〜」